二か国経営がスタート。
初の人口2万人超の大城である石川城(西陸奥)を
手に入れテンションを上げつつ、またチマチマと内政を一年。
その期間に羽後中部の戸沢家から
従属の申し入れが入ったので快く受け入れる。
また羽後南部に位置する小野寺家と手を結ぶべく工作を進める。
羽後地域では西部の安東家とも現在停戦状態のため、
心置きなく東部の南部家の城に全兵力を向けられる(ニヤリ)
1544年11月、機は熟し、いよいよ出兵!
蝦夷の本城2600+支城1400 (4000)
西陸奥の本城2700+支城1600(4300)
総勢8300という過去最大の兵を動員。
※さらに安東家から援軍1000、西陸奥の国人衆1600が出兵。
ばっくりとした侵攻作戦は、、、
後難の憂いのない蝦夷兵に先陣を切って戦闘させて、
当主率いる西陸奥の本隊で城攻めをして陥落させる。てな感じで。
領土進攻直後、東陸奥からきた南部家の援軍1500を余裕で蹴散らし、
羽後の独鈷城を包囲。。。ん、まてよ援軍の数が少なすぎじゃね?
もしかしたら南部家の東陸奥の城って手薄!?
東陸奥は本城が一つだけで支城は無いので一つ落とすだけで
一気に支配権を得れるし。。。本城なので収益も多い。
一挙両得、、、二兎追うものは一兎も得ず、、、濡れてに泡、、、
色んな言葉が脳裏をよぎりつつも欲望には勝てず(笑)
「兵1000で独鈷城を包囲。残す全軍は(東陸奥)三戸城へ進めー!」
羽後の城を本隊4000+援軍1000で囲むと、
早々に降伏の使者がやってきて無血開城なる。
そのまま本隊の主力2700は、東陸奥の本城を攻めている
蝦夷遠征軍4000の後詰めをなすため東陸奥へ出陣。
と、ここで月またぎ、包囲したまま翌月へ。(結局三ヶ月かかった)
ここにきて領土拡大に伴う初めての問題が発生。
今回の戦により、蝦夷・西陸奥・羽後を治めることとなり、
領地の一部が直轄地の支配範囲外になりました。
内政に無駄が起きないように早々に軍団を新設しなきゃなりませぬ。
安全地の蝦夷を軍団にまかせ援護させる。
そして軍団長には血縁から姫武将をあてる。
なお、軍団親切に伴い本拠を蝦夷から新しく獲った東陸奥に移す。
ここで新領地に対し約1年くらい内政開発に勤しむ。
新本拠地の東陸奥は本城が一つだけで支城は0。
だけど国人衆が6つもあるという国人衆優位の地域。
国人衆の懐柔を図りつつ、支城の築城も視野に入れ
チマチマと内政を進めます。
この後、すっかり余裕こいて油断していたら、
従属していた戸沢家が南部家に攻め取られる。
これに対して危機感を抱いたのか、ここの隣城につめる
小野寺家から従属の使者。かーるく受諾。
数ヶ月後にはまた南部家により小野寺家の城が陥落。
これによりまた南方向はすべて南部家が占める。
むむむ、、、直接対決まったなし!
南部領に楔を打つ場所に、約4ヶ月かけ支城を築城、
約1年、内政を続け国内充実させ、ちらりと南部家の状況を
みると陸中の全城を掌握、羽後の南に2城を有している状態。
最近は南方を面する伊達家と小競り合いを繰り返している様子。
これは好機か、、、、満を持して南部家への進攻を開始!
とか思ってた矢先、当主が死去!
1546年6月 東陸奥 三戸城にて永眠。享年66歳。
後継者は長男に・・・
さてさて、そんなこんなで現在の群雄割拠の情勢。
「人口数ベスト5」
1.北条家氏康 323642
2.大友家義鑑 309285
3.長尾家晴景 215707
4.大内家義隆 205353
5.尼子家詮久 197553
(当家 133543)
「石高ベスト5」
1.大友家義鑑 15083
2.北条家氏康 14004
3.大内家義隆 10236
4.本願寺家証如 9006
5.長尾家晴景 8479
(☆☆家 4536)
「兵数ベスト5」
1.北条家氏康 48186
2.長尾家晴景 39476
3.大友家義鑑 37550
4.尼子家詮久 31054
5.大内家義隆 30841
(☆☆家 18796)
「武将数ベスト5」
1.長尾家晴景 41
2.佐竹家義昭 35
3.大友家義鑑 34
4.毛利家元就 32
5.尼子家詮久 31
(☆☆家 24)
西では頭一つ出た大友と大内が争い、
中部はまだまだドングリの小競り合い。
関東では北条と佐竹の争いを武田、長尾が静観。
東北では伊達が二家(植宗・晴宗 )に分かれつつも
拡張を重ねており、植宗(北)は南部家と抗争中。
※ちなみに植宗は明らかに北野武さんがモデルです(笑)