3.エディット道

天下布武 新武将 (は)

これまた多い「は」で始まる名前の武将編。
去年の11月から初めてやっと「は」です・・・・


拝郷家嘉 (1549-1583)
政治53・戦闘74・采配64・智謀32
内特(登用) 戦特(騎突)
職業() 主義(重視)
足軽B・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(90) 最大義理(100)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
織田家 家臣。柴田勝家の副将として従う。
日本版 泣く子も黙るといわれた猛将。
賤ヶ岳の戦いで殿を務め追手の七本槍らと奮闘、福島正則に討ち取られた。
ちなみに「子連れ狼」の拝一刀は曾孫という設定らしい。

波川清宗 (1536?-1581) 
政治47・戦闘69・采配70・智謀18
内特(建設) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍C
義理(60) 最大義理(75)
口調(粗暴) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
長宗我部 家臣。ナミカワではなくハガワ。
国親の重臣として働き国親の娘を正室とした。なので元親は義弟。
・・・なのに元親に逆らい滅ぼされた。ダメぢゃん。


豊臣国松 (1608-1615)
政治53・戦闘26・采配63・智謀11
内特(登用) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽E・騎馬E・鉄砲E・水軍E
義理(85) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
豊臣秀頼がわずか15で産ませた嫡子。
・・・ダメだこりゃ!豊臣も滅ぶわ(笑)、
8つで亡くなってるので能力の査定もへったくれもありまへん。


羽柴秀勝  (1569-1592)
政治36・戦闘59・采配45・智謀13
内特(農業) 戦特(焙烙)
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍D
義理(80) 最大義理(100)
口調(生意気) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
秀吉の姉の子。兄は秀次、弟は秀保。
24で没。秀次は27で秀保は17、なんとも幸の薄い兄弟。
農夫のままだったとしたらもっと長い人生を楽しめたんかな。。。
どうやら隻眼であったそうな。信長の四男(秀勝)が夭折したあとに
遺領と官位を受け継いで、突然に城持ち+左近衛権少将とされ、
さらには浅井江と婚礼させられた(!) ・・・ここまで優遇されながら
九州攻めの論功行賞(10万石)に文句言って謹慎させられた。
朝鮮攻め中に陣没。


羽柴秀保  (1579-1595)
政治43・戦闘47・采配45・智謀13
内特(建設・登用) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍D
義理(80) 最大義理(100)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
秀吉の姉の子。3兄弟の三男。子の無い秀長の婿養子となった。
17で早世。豊臣の次代を一切担えなかった3兄弟。。。


長谷川秀一  (1560?-1594)
政治68・戦闘45・采配57・智謀52
内特(建設・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍D
義理(85) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
織田信長⇒豊臣秀吉の家臣。
城の復旧・建設奉行などの内政官として重用された。
本能寺の変では接待役当てしていた家康の伊賀越えに同行。
朝鮮攻めの最中、朝鮮にて没。


長谷川守知 (1569-1633) 
政治67・戦闘33・采配45・智謀46
内特(商業・建設・登用) 戦特()
職業(茶人) 主義(重視)
足軽D・騎馬E・鉄砲D・水軍D
義理(75) 最大義理(80)
口調(饒舌) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(中立)
父は堺衆筆頭の長谷川宗仁。父と共に織田信長に仕え
中途より武将となった。本能寺の変後⇒秀吉⇒徳川家。
さすが元商人、世渡り上手だね。


畠山貞政  (1550-1602)
政治30・戦闘27・采配43・智謀22
内特(建設・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬E・鉄砲E・水軍E
義理(75) 最大義理(90)
口調(高貴) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
畠山政尚の子。子孫は江戸時代になり高家となった。


畠山義隆 (1556-1576)
政治68・戦闘26・采配33・智謀27
内特() 戦特()
職業() 主義(絶対)
足軽E・騎馬E・鉄砲E・水軍E
義理(70) 最大義理(80)
口調(高貴) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
畠山義綱の子。二本松義隆を称した。
兄と共に早世なのもあり兄(義慶)との同一人物説も、
・・・ようするに影が薄い。


畠山義憲 (1554-1574)
政治36・戦闘43・采配35・智謀29
内特() 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(80) 最大義理(90)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
まったく事跡が分からない(笑)
畠山義綱の縁戚・・・だよね。


蜂須賀忠英 (1611-1652) 
政治53・戦闘33・采配39・智謀30
内特(農業・建設) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬D・鉄砲D・水軍C
義理(75) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
蜂須賀至鎮の嫡子。
小六正勝の曾孫にあたる、完全に江戸時代の人。


蜂須賀至鎮  (1586-1620)
政治70・戦闘40・采配64・智謀58
内特(農業・建設・外交・登用) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍D
義理(85) 最大義理(100)
口調(饒舌) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
蜂須賀家政の長男。小六正勝の孫。
初代からの野蛮要素がドンドン薄らいできている。
豊臣姓、松平姓を両方下賜されている世渡り上手。
出来た後継者だったが残念ながら早世。


花房正成  (1555-1623)
政治69・戦闘65・采配73・智謀55
内特(農業・建設・外交・登用) 戦特(騎突)
職業() 主義(軽視)
足軽B・騎馬D・鉄砲D・水軍C
義理(90) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
宇喜多家⇒徳川家(旗本) 宇喜多家 家老として直家、秀家を支えた。
秀吉や家康らにも愛された名将なるも、
宇喜多家 家老衆の権力争いにより出奔した。
徳川家康、大谷吉継、榊原康政らの調停で高野山に蟄居し後に復帰。
関ヶ原で宇喜多家は西軍につき敗戦。徳川家に召しだされた。
関ヶ原戦後、八丈島に流された宇喜多秀家を生涯支援し続けた。


花房正幸  (1524-1605)
政治77・戦闘67・采配60・智謀39
内特(商業・建設・登用) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬D・鉄砲C・水軍D
義理(85) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
正成の父。82まで生きた長生きじいさん。
重臣として宇喜多家を支えた智勇兼備の名将。


速水守久  (1570-1615)
政治66・戦闘70・采配69・智謀44
内特(農業・外交・登用) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(90) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
浅井家から茶々の近習として豊臣秀吉の家来へ。
秀吉政権では検地奉行として活躍。
秀吉死後は片桐且元と共に徳川家との調停に奔走、
大阪の陣では自身が教育係であった千姫を徳川に送り、
大阪城にて秀頼らと殉死した。勿体無い戦国最後の忠臣。


原昌胤  (1531?-1575)
政治74・戦闘70・采配77・智謀68
内特(建設・外交・登用) 戦特(騎突)
職業() 主義(軽視)
足軽B・騎馬B・鉄砲E・水軍E
義理(85) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
武田二十四将の1人。名前似てるけど原虎胤とは別家系。
戦では陣馬奉行として活躍し、
大宮城代として領国経営にも手腕を発揮した。


半田吉就  (1532-1573)
政治35・戦闘53・采配64・智謀46
内特(外交) 戦特(焙烙)
職業(僧侶) 主義(重視)
足軽B・騎馬C・鉄砲E・水軍E
義理(80) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
朝倉家に代々仕える家系。僧籍みたい。
朝倉にご厄介になってた足利義昭を接待したらしいが、
名将である朝倉宗滴に従い加賀一向一揆攻めにも出ている武闘派。





(政治・戦闘・采配・智謀) 1~100 内特(農業・商業・建設・外交・登用) 戦特(三段・騎突・焙烙・騎鉄) 職業(忍者・僧侶・剣豪・茶人) 主義(絶対・重視・軽視・無視) 足軽・騎馬・鉄砲・水軍) S~E 義理(0~100) 最大義理(35~100) 口調(無口・礼儀正・粗暴・高貴・生意気・威厳・饒舌・普通) 思考形態(強保守・やや保守・やや革新・強革新) 上洛志向(上洛・地方統一) キリスト教理解(敵視・不信・中立・歓迎)