割と多めの「ふ」武将をスタート。
福島高晴 (1573-1633)
政治63・戦闘76・采配73・智謀28
内特(商業・建設) 戦特(騎突・焙烙)
職業() 主義(重視)
足軽B・騎馬B・鉄砲D・水軍D
義理(70) 最大義理(85)
口調(粗暴) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
福島正則の弟。秀吉死後、兄と共に家康につく。
1万石から3万石に加増されるも、粗野で横柄な性格は
さらに増長し、家臣が家康に改善を直談判する始末。
改易され伊勢に蟄居、以来10年以上許されぬまま
貧困の生活の中で死んだそう。自業自得だぜ。
福島正勝(忠勝) (1598-1620)
政治53・戦闘67・采配58・智謀24
内特(建設) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍D
義理(85) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
福島正則の次男。徳川秀忠から一字偏諱され改名した。
生没年がだいぶズレているけど、たぶんこっちが正解。
のちに改易された父と共に蟄居、父より先に早世。
あまりに悲しんだ正則は、幕府に領地を返上して隠居しちゃった。
なんじゃそりゃ。
福留親政 (1511-1577)
政治47・戦闘83・采配78・智謀37
内特(農業) 戦特(騎突)
職業() 主義(軽視)
足軽B・騎馬B・鉄砲E・水軍D
義理(90) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
長宗我部元親の家臣。元親から一字偏諱され重用された。
安芸国虎との戦いでは20人(37人)斬りを行い、
「福留の荒切り」と呼ばれた。のちに信親の守役となった。
福原長堯 (1571?-1600)
政治78・戦闘29・采配47・智謀56
内特(農業・商業・建設) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽E・騎馬E・鉄砲D・水軍D
義理(85) 最大義理(100)
口調(生意気) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
石田三成の妹婿。なんで義弟。
幼少時より秀吉の近習⇒馬廻衆として仕える。
検地代官、伏見城の普請など内政で活躍し、
2万石⇒3万石⇒12万石と着実に加増され
奉行として重用される。しかし軍律違反の告口魔(笑)
秀吉死去の際に、形見として国俊の太刀を下賜。
官僚然として嫌われ者ではあったが豊臣家への忠義は
本物であり、警戒した家康により難癖つけられ6万石に減封。
関ヶ原戦では勿論、西軍として参加するも
人望なく仲間陣営の裏切りにあい捕縛され、切腹。
福原昌堯 (1597-1662)
政治30・戦闘76・采配68・智謀53
内特() 戦特(騎突)
職業(剣豪) 主義(無視)
足軽B・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(90) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(中立)
うーん、ネットでひっかからないなぁ。
関ヶ原戦後に乳母に連れられ因幡に逃れたという
福原長尭の遺児が成人したという設定かなぁ?
小説かなんかに出るんかなぁ・・・。
親父と真逆の武闘派武将となっております。
(ちょっと贔屓目)
福屋隆兼 (1524?-1562?)
政治43・戦闘36・采配45・智謀40
内特(外交) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽D・騎馬D・鉄砲E・水軍D
義理(45) 最大義理(65)
口調(饒舌) 思考形態(強革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(中立)
元々は尼子氏に属した国衆だったが、大内氏⇒毛利氏へ。
しかし領地問題により毛利氏から尼子氏に復帰。
・・・したものの、尼子・毛利間の和平にとっては存在が
邪魔なので追い出された(笑)、そして流浪ののちに
なぜだか大和国 松永久秀の家臣に。(と・遠い!)
その後、なんだかんだで山中鹿之助で有名な
尼子家再興軍にも参加(!) 再興軍の壊滅後、
最終的には蜂須賀家政に仕えたとされる。
まさに波乱万丈な人生。結局、家名は幕末まで続く。
うーん、強いほうにつくというワケでもなく、かといってこんだけ
主を変えながら処刑や戦死することもなく、なぜかしぶとい。
日和見とはまた違った世渡り術(笑)
藤田行政 (1515?-1582)
政治33・戦闘54・采配66・智謀27
内特(外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(85) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
明智光秀の重臣。一説によると光秀の父の代からの重臣。
そうなると本能寺当時だいぶお爺さんで無理があるなぁ・・・
天下布武では二十歳、これも重臣としてはちょっとなぁ。
なお主の光秀自体がそうであるように、前半生は謎である。
船越景直 (1540-1611)
政治34・戦闘70・采配69・智謀23
内特() 戦特(三段・焙烙)
職業(茶人) 主義(重視)
足軽C・騎馬E・鉄砲C・水軍B
義理(70) 最大義理(85)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
元々は淡路の国衆。
三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を率い仕えた。
三好滅亡後は織田家に従属。本能寺後は秀吉に仕える。
秀次事件で意見し南部家に蟄居させられる、
秀吉の死後に徳川家康に請われ家臣として旗本に。
長生きジーサン。古田織部に師事した茶人としても有名。
古川忠隆 (1531-1593)
政治28・戦闘56・采配49・智謀30
内特(農業) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲E・水軍E
義理(85) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
大崎家の家臣。弟を攻めて討ったのと、
娘が大崎一門 百々隆基の嫁になったことぐらいしか事跡がない。
古田重勝 (1560-1606)
政治69・戦闘40・采配56・智謀59
内特(商業・建設・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(85) 最大義理(90)
口調(礼儀正) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
有名な古田織部の親戚。(甥という説もあるが確証なし)
秀吉に仕え伊勢 松坂城を与えられる。
ところが秀吉死後は一貫して徳川派をとおす。
木食応其に西軍入りを説得されても完全無視(笑)
戦後、2万石加増され5万5千石の大名に。
どうやら城の修繕が得意のようで江戸城の石垣普請とかもやってる。
古田重恒 (1603-1648)
政治16・戦闘34・采配18・智謀8
内特(建設) 戦特(焙烙)
職業() 主義(軽視)
足軽D・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(35) 最大義理(70)
口調(生意気) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
古田重勝の嫡子。
40過ぎても子が無かったのを心配した江戸家老らが
古田家 親戚筋から養子を入れようと画策してたのが、
気に入らず激怒。その一派をすべて殺害させた。
そして結局、嫡子は出来ず断絶し改易となった。馬鹿殿。
不破勝光 (1554?-1598)
政治48・戦闘50・采配66・智謀30
内特(商業・建設) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(85) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
不破光治の子。織田信長に従い、父の死後は跡を継ぎ奉行職に
本能寺後は柴田勝家に属し戦う、敗戦後は前田利家に仕える。
正室は北畠具教の娘という名門。割と優遇されてる。
なお記録によると肥満体だったそうな。
不破光治 (1521-1589)
政治68・戦闘51・采配67・智謀57
内特(商業・外交) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(85) 最大義理(100)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
斉藤家の家臣。西美濃4人衆の1人。
斉藤氏の滅亡後に信長に仕える。以後、重用されあっちこっち出陣。
柴田勝家に配備され三奉行として佐々成政・前田利家とともに仕える。
(政治・戦闘・采配・智謀) 1~100 内特(農業・商業・建設・外交・登用) 戦特(三段・騎突・焙烙・騎鉄) 職業(忍者・僧侶・剣豪・茶人) 主義(絶対・重視・軽視・無視) 足軽・騎馬・鉄砲・水軍) S~E 義理(0~100) 最大義理(35~100) 口調(無口・礼儀正・粗暴・高貴・生意気・威厳・饒舌・普通) 思考形態(強保守・やや保守・やや革新・強革新) 上洛志向(上洛・地方統一) キリスト教理解(敵視・不信・中立・歓迎)