ぐいぐいいくぜ!
続いて「め」を飛ばして「も」で始まる武将。
※天下布武は「め」の登場武将がゼロ。
毛利勝信 (1558?-1661)
政治65・戦闘63・采配67・智謀36
内特(建設) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬C・鉄砲C・水軍D
義理(90) 最大義理(100)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(中立)
毛利勝永の父。本名は「森 吉成」まぎらわしい。
早くから秀吉に仕える。
九州平定後に秀吉の命により森から毛利に改姓。
豊臣政権では複数の城を築いているので得意だったんかな?
関ケ原では西軍にて参戦、戦後は加藤清正、山内一豊らの
仲介により四国 山内家にて隠居。子孫は山内家の家臣に。
毛利高茂 (1603-1635)
(政治46・戦闘47・采配67・智謀42
内特(農業) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(60) 最大義理(80)
口調(普通) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
これまた全然ひっかからず
豊後にて登場なので毛利元就の一族ではなさそう。
毛利高政 (1559 – 1628)
政治68・戦闘67・采配63・智謀43
内特(農業・商業・建設) 戦特(焙烙)
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲C・水軍C
義理(75) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(歓迎)
これまた混じらわしいけど本名 森友重。
こっちは毛利輝元から貰った毛利姓。でも秀吉の家臣。
さらに毛利(森)勝信とは別家系。あー紛らわしい(笑)
中国大返しのときに毛利家に人質としておかれた際に、
毛利輝元にたいそう気に入られ毛利姓を贈られたそう。
大阪城普請や検地奉行、船奉行として活躍。
なにげにキリシタン。
天下布武では脳筋武闘派だけど、どう見ても内政寄り。
毛利綱広 (1619-1669)
政治56・戦闘34・采配43・智謀33
内特(商業・建設) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(70) 最大義理(90)
口調(威厳) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
毛利秀就の嫡男。毛利輝元の孫にあたり、
母は徳川家康の孫(結城秀康の娘)で将軍家綱は外又従弟。
反骨心が強く、その反幕府な態度に改易を恐れ
ビビった家臣らにより隠居させられた(笑)
毛利就隆 (1602-1679)
政治65・戦闘43・采配64・智謀52
内特(商業・建設・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(70) 最大義理(100)
口調(生意気) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
毛利輝元の次男。分家され下松藩を立てる。
長男 秀就と就隆・秀元に分かれ仲が悪かったそうな・・・
毛利秀就 (1595-1651)
政治47・戦闘45・采配56・智謀45
内特(商業・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(70) 最大義理(100)
口調(生意気) 思考形態(強保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(敵視)
毛利輝元の長男。
毛利家の関ケ原敗戦後、若き日は江戸にて人質として過ごす。
元々、輝元の養子になっていた秀元が藩政をしきった。
賢い秀元にくらべ、ダメ人間な当主 秀就といった模様。
毛利秀政(秀秋) (1565? – 1615)
政治32・戦闘53・采配41・智謀27
内特() 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽D・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(100) 最大義理(100)
口調(無口) 思考形態(やや保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
毛利秀頼の嫡男。京極高知の義弟(姉の旦那)。
親子2代、羽柴秀吉の家臣として仕える。
関ケ原は西軍にて敗戦、懲りずに大阪の陣にも西軍で参戦し討死。
毛利秀頼(長秀) (1541-1593)
政治57・戦闘34・采配45・智謀46
内特(建設・外交) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(80) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや保守)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(敵視)
尾張守護 斯波義統の遺児と伝わる。
父の暗殺後に織田信長に保護され育つ
信長揮下で功を上げ、信忠の与力となる。
本能寺後は秀吉に従い侍従に任官。豊臣姓を許される。
地味ながら要所をおさえる処世上手。
毛利光広 (1616 – 1653)
(政治54・戦闘40・采配48・智謀46
内特(商業・登用) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽D・騎馬E・鉄砲E・水軍E
義理(75) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
毛利秀元の次男。長男が早世したので藩を継承した。
藩主期間は3年しかないので、たいした事跡は無し。
毛利元康 (1560-1601)
政治46・戦闘67・采配66・智謀59
内特(建設・外交・登用) 戦特(焙烙)
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬D・鉄砲C・水軍D
義理(80) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
毛利元就の八男。末次氏を称した。
末次城、月山富田城、神辺城などの城代を歴任。
朝鮮役では渡海し活躍。
関ケ原の前哨戦では立花宗茂軍と共に
京極高次の籠る 大津城を陥落させた。
関ケ原後の1601年、大阪の毛利陣にて42で急死。
・・・主戦派だったし怪しいぜ。
最上義時 (1550-1576)
政治29・戦闘66・采配43・智謀18
内特() 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬D・鉄砲E・水軍E
義理(60) 最大義理(70)
口調(無口) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
最上義光に暗殺された弟。別名、中野義時。
なんだけど・・・実は最近の研究では
実在しない架空の人物らしい(笑)
最上義俊(家信) (1605-1632)
政治37・戦闘60・采配47・智謀26
内特() 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(70) 最大義理(100)
口調(生意気) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
最上家親の嫡男。山形藩3代目。最上義光の孫。
初名は家康から一字拝領し「家信」だけど改易後、返した。
家親の急死(36)により13で家督継承、
しかし義光時代からの老臣にはナメられ勝手され、
大叔父の山野辺義忠(義光の4男)に政治介入されるは、
ドタバタから最上騒動が勃発。あえなく幕府から
所領大幅減(57万⇒1万石)で転封(改易)となる。
こちらも早死にの27で没。
ちなみに山野辺義忠のほうは、改易後に将軍 家光の命で
水戸徳川家に預けられ幼年であった光圀の教育係となり、
子孫は代々 水戸徳川家の家老を歴任した。
最上義康 (1578-1611)
政治63・戦闘60・采配53・智謀37
内特(商業・建設・外交) 戦特(騎突)
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(80) 最大義理(100)
口調(礼儀正) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
最上義光の長男。親父の欲深すぎる策謀の犠牲になった人。
最上家が豊臣臣下となったあと京に出仕し、秀吉に近侍し仕えた。
心根の優しい好人物であり秀吉にも気にいられていたそう。
関ケ原以後、義光の重臣 里見民部の諫言や、
弟 家親が家康に近侍しており親徳川に有利など
それらが要因となり、徐々に父との関係が悪化。
最終的に上意討ちという形で義康と近臣らは暗殺された。
なお暗殺を直接指示していた里見民部一派は
のちに義光により粛清された。
・・・きたないオッサンだな、まったく (おえ)
最上(天童) 頼澄 (1543-1575)
政治57・戦闘68・采配70・智謀39
内特(農業・建設・外交) 戦特()
職業() 主義(軽視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(70) 最大義理(80)
口調(普通) 思考形態(強保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(敵視)
年代がちょっとズレてるけど天童頼澄かなぁ。
母は伊達氏重臣の娘で姉は最上義光の側室という
微妙な立場の血筋(笑) 一応独立した国衆だったらしい。
最上家に攻められ、伊達家の臣下に。
森長武 (1645-1696)
政治64・戦闘36・采配47・智謀46
内特(農業・商業・登用) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(80) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(強革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
森長継の三男。完全に江戸時代の人。
天下布武では武闘派なんだけど
事跡的には絶対に内政の人。
元々は関氏らしい (祖父は関 成次)
森長継 (1610-1698)
政治71・戦闘44・采配53・智謀55
内特(農業・商業・建設) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬D・鉄砲D・水軍E
義理(80) 最大義理(90)
口調(普通) 思考形態(やや革新)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
関成次の嫡男。父の主であった森忠政の養子となる。
養父の死後 津山藩を継承。
内政(城下町振興・再検地・新田開発・治水)に
力を注ぎ藩政を安定させた。
森長俊 (1649-1735)
政治67・戦闘40・采配57・智謀42
内特(商業・建設) 戦特()
職業() 主義(重視)
足軽D・騎馬E・鉄砲E・水軍E
義理(80) 最大義理(100)
口調(普通) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(不信)
森長継の五男。これまた完全に江戸時代の人。
父により1万5千石で分藩される。
後年、本家が改易されるなか藩を維持し87まで長生きした。
良いお殿様だったらしいけど、なんか性格悪そうな顔グラ(笑)
森可政 (1560-1623)
政治65・戦闘66・采配67・智謀53
内特(建設・外交・登用) 戦特(騎突・焙烙)
職業() 主義(重視)
足軽C・騎馬C・鉄砲D・水軍E
義理(70) 最大義理(80)
口調(粗暴) 思考形態(やや革新)
上洛志向(上洛) キリスト教理解(不信)
森可行の次男。兄は森可成。
兄弟とはいえ兄 可成とは37歳差。父 可行は元気な爺(笑)
兄の子(甥) 長可に仕えていたが出奔し豊臣秀吉に仕える。
秀吉死後は早々に徳川側に転身。関ケ原以後は家康の直臣に。
その後、森本家を継承した森忠政に請われ
森家に復帰。忠政を重臣として補佐した。
問註所統景 (1548? – 1593)
政治43・戦闘67・采配76・智謀45
内特(建設) 戦特(三段・焙烙)
職業() 主義(軽視)
足軽B・騎馬D・鉄砲C・水軍E
義理(80) 最大義理(100)
口調(威厳) 思考形態(やや保守)
上洛志向(地方統一) キリスト教理解(中立)
大友家 家臣。
籠城戦(守備)を得意とし、近隣の列強である
竜造寺氏、島津氏を相手に筑後 長岩城城を守り切った。
朝鮮の役にて討ち死。子孫は正室の実家である立花家に仕えた。
名前が仰々しいので公家っぽいグラだが
ガチガチの武人(笑)
(政治・戦闘・采配・智謀) 1~100
内特(農業・商業・建設・外交・登用) 戦特(三段・騎突・焙烙・騎鉄)
職業(忍者・僧侶・剣豪・茶人) 主義(絶対・重視・軽視・無視)
足軽・騎馬・鉄砲・水軍 S~E
義理(0~100) 最大義理(35~100)
口調(無口・礼儀正・粗暴・高貴・生意気・威厳・饒舌・普通) 思考形態(強保守・やや保守・やや革新・強革新)
上洛志向(上洛・地方統一) キリスト教理解(敵視・不信・中立・歓迎)