無事に亡き父 信長の遺志を継ぎ天下布武成ったのか!?
それでは結果を年表形式で一気にいってみよー!
【1582夏】織田信孝家
1.羽柴秀吉(-)130万石 19700
2.北条氏政(-)122万石 11000
3.柴田勝家(-)118万石 11800
4.毛利輝元(参議)112万石 15800
5.上杉景勝(参議)88万石 11200
6.竜造寺隆信(-)88万石 16000
7.明智光秀(-)84万石 10400
8.島津義久(参議)72万石 11200
9.徳川家康(三河守)66万石 5100
10.佐竹義重(常陸守)65万石 9800
*.織田信孝(-)42万石 3700
強大な同盟相手、秀吉の威を借りつつ
当面、これ以上に秀吉家が伸張しないように
四国から西を急いで奪取する作戦。
史実に反し池田家が明智家に臣従。
細川家は柴田家に臣従。羽柴家が伸び悩む。うしし、、、
【1583春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(-)149万石 15200
2.柴田勝家(左京大夫)141万石 20000
3.毛利輝元(参議)138万石 14900
4.北条氏政(-)129万石 21200
5.島津義久(参議)100万石 16900
6.明智光秀(-)98万石 11900
7.上杉景勝(参議)85万石 17000
8.徳川家康(三河守)82万石 5700
9.竜造寺隆信(筑後守)79万石 15900
10.佐竹義重(常陸守)73万石 11000
*.織田信孝(伊勢守)53万石 8100
綱渡りでなんとか一年目を突破。
伸び悩む羽柴家の拡大速度は安心圏なれど
予想以上な毛利・島津の侵攻の早さが不安要素。
【1584春】織田信孝家
1.毛利輝元(参議)245万石 23900
2.羽柴秀吉(修理大夫)189万石 20500
3.柴田勝家(左京大夫)176万石 28100
4.北条氏政(-)164万石 15300
5.島津義久(参議)108万石 19700
6.徳川家康(三河守)93万石 8800
7.織田信孝(-)83万石 10900
8.佐竹義重(常陸守)80万石 9100
9.織田信包(-)72万石 11700
10.北条高広(参議)63万石 10800
まさかの上杉景勝戦死!⇒北条高広
旧織田の小勢力を吸収し織田家信包が徐々に伸張。
一方当家は一大勢力となった毛利家と開戦間近。
地道に勢力拡大の徳川家。流石。
【1585春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(修理大夫)230万石 27500
2.北条氏政(侍従)215万石 33800
3.柴田勝家(左京大夫)215万石 35300
4.吉川元春(参議)213万石 18400
5.徳川家康(三河守)126万石 18000
6.織田信孝(-)122万石 9800
7.島津家久(参議)121万石 17300
8.織田信包(-)105万石 19300
9.竜造寺隆信(筑後守)71万石 8500
10.佐竹義重(常陸守)70万石 9000
対九州勢のために戦力が分散中の毛利家と開戦。
ノコノコと四国戦線に当主自ら出てきた
毛利輝元を討ち取る。四国統一 ⇒吉川元春
対毛利戦において島津義久が戦死⇒島津家久
【1586春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(修理大夫)307万石 36300
2.吉川元春(参議)244万石 32000
3.北条氏政(侍従)225万石 31100
4.柴田勝家(左京大夫)224万石 24000
5.徳川家康(右京大夫)166万石 21300
6.織田信孝(左京太夫)154万石 14000
7.島津家久(参議)114万石 20000
8.織田信包(-)106万石 16000
9.佐竹義重(常陸守)76万石 6500
10.竜造寺隆信(筑後守)36万石 6500
真田家が北条家に臣従。
兄(実際は同年で誕生日が後)である織田家信雄と開戦。
その虚を突き鈴木家が同盟破棄し当家に侵攻。
明智家が柴田家に臣従し、柴田家と羽柴家が
ガッツリと全面衝突へ。あっさりと織田家信雄が滅亡。
【1587春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(修理大夫)386万石 49800
2.吉川元春(参議)259万石 36100
3.北条氏政(大膳大夫)256万石 30200
4.織田信孝(左京太夫)205万石 23900
5.徳川家康(右京大夫)182万石 18400
6.佐久間盛政(左京大夫)168万石 8100
7.島津家久(参議)146万石 19300
8.織田信包(侍従)97万石 13100
9.佐竹義重(常陸守)72万石 6300
10.相馬盛胤(-)50万石 4700
北条家高広、竜造寺家が滅亡。
鈴木家佐太夫を滅亡させ紀伊を統一。
水軍力の差から吉川家に侵攻できず(越海)
そんななか羽柴家が吉川家との同盟を破棄!この流れに乗じ
西進(中国・九州)作戦から、東進(尾張)作戦へと計画変更。
羽柴家との戦いで柴田家が壊滅的な損害で大敗。
主だった武将が戦死。明智家が滅亡。勝家戦死⇒佐久間盛政
【1588春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(修理大夫)429万石 56800
2.北条氏政(大膳大夫)267万石 27900
3.織田信孝(左京太夫)261万石 26500
4.吉川元春(参議)239万石 27400
5.徳川家康(右京大夫)174万石 23500
6.佐久間盛政(左京大夫)164万石 8600
7.島津家久(参議)144万石 17100
8.佐竹義重(侍従)101万石 8400
9.織田信包(侍従)67万石 6200
10.伊達輝宗(奥州探題)30万石 5300
織田家信孝 200万石超えし天下を狙う勢力の一角に。
真田家が徳川家に臣従。尾張に進出。徳川家と開戦。
西の吉川家、東の北条家も羽柴家には単独で対抗できず、
超巨大勢力となった羽柴家を如何に打倒するか、、、
【1589春】織田信孝家
1.羽柴秀吉(修理大夫)518万石 56300
2.北条氏政(大膳大夫)382万石 41800
3.織田信孝(左京太夫)326万石 30100
4.島津義弘(参議)199万石 19000
5.徳川家康(右京大夫)147万石 16800
6.佐久間盛政(左京大夫)144万石 10000
7.吉川元長(参議)126万石 21000
8.佐竹義里(大膳大夫)78万石 3800
9.葛西晴信(-)14万石 2700
10.南部信直(-)12万石 2400
佐竹家義重が戦死。⇒佐竹義里
伊達家が北条家に臣従。最上家が羽柴家に臣従。
織田家信包を滅ぼし尾張地方を統一。
永き堪忍も潮時か300万石超えを機に羽柴家との
従属同盟を破棄し、織田家再興の狼煙を上げる!
【1590春】織田信孝家
1.北条氏政(大膳大夫)621万石 65900
2.羽柴秀長(修理大夫)499万石 69500
3.織田信孝(左京太夫)346万石 30600
4.島津義弘(参議)226万石 38100
5.佐久間盛政(左京大夫)137万石 10200
6.徳川家康(右京大夫)123万石 5100
徳川攻めの為、美濃に駐留中の秀吉軍本隊を急襲。
秀吉の首級を上げる!羽柴家秀吉が戦死⇒秀長
東北の相馬家、安東家、最上家が滅亡。
小野寺家、葛西家、南部家が羽柴家に臣従。
吉川家元春が病死。⇒元長
島津歳久が戦死。⇒義弘
【1591春】織田信孝家
1.北条氏直(大膳大夫)601万石 41400
2.羽柴秀長(修理大夫)452万石 52600
3.織田信孝(左京太夫)404万石 25800
4.島津義弘(参議)316万石 37900
5.佐久間盛政(左京大夫)149万石 10200
6.本多忠勝(右京大夫)45万石 1500
斜陽の吉川家が北条家に臣従。
伊達家が北条家から徳川家に寝返る。
西の羽柴家と東の北条家の天下争いの様相に。
織田、徳川、佐久間の動向は、、、
北条家が6万超の軍勢にて上洛を開始。
徳川家家康戦死⇒本多忠勝。
北条家と初の直接対決、織田27000北条19000。
北条氏政を討ち取る!⇒氏直。
【1592春】織田信孝家
1.北条氏直(大膳大夫)656万石 46700
2.羽柴秀長(参議)478万石 50600
3.織田信孝(左京太夫)440万石 35800
4.島津義弘(参議)333万石 37700
5.細川忠興(参議)96万石 3200
信長公の死去から10年、直後に覇権を争った
明智光秀、柴田勝家、羽柴秀吉、徳川家康、織田信雄、織田信包、
島津義久、上杉景勝、毛利(輝元)、北条(氏政)らは尽く死去。
九州統一を成した島津家がいよいよ本州へ進出開始。
本多家忠勝が戦死⇒伊達家成実に禅譲。
佐久間家盛政が死去⇒細川忠興。
【1593春】織田信孝家
1.北条氏直(大膳大夫)656万石 60800
2.織田信孝(参議)596万石 37800
3.羽柴秀長(参議)406万石 29300
4.島津義弘(参議)339万石 37200
細川家が織田家に臣従。伊達家が滅亡。
悲願である安土城奪還をかけて、
羽柴家13000と織田15000にて主力決戦。
長浜城をかけ第二次決戦!織田19000対羽柴12000
【1594春】織田信孝家
1.北条氏直(大納言)653万石 52300
2.織田信孝(参議)610万石 64900
3.羽柴秀長(参議)381万石 40800
4.島津義弘(参議)366万石 42600
伸張する北条家を叩くため、羽柴家への侵攻作戦を一時停止。
本能寺の変より従ってきた重臣の丹羽長秀、津田信澄が死去。
史実では関ヶ原まであと6年、家臣団の世代交代期か。
【1595春】織田信孝家
1.織田信孝(参議)655万石 76300
2.北条氏直(大納言)610万石 21900
3.羽柴秀長(参議)389万石 39800
4.島津義弘(参議)376万石 38400
悲願である信長公の居城 安土城奪還をついに達成。
信濃にて織田35000と北条30000で主力激突。
島津家により吉川家が滅亡。
中国地方にて羽柴家と島津家が小競り合い。
【1596春】織田信孝家
1.織田信孝(参議)738万石 90800
2.北条氏直(大納言)586万石 600
3.島津義弘(参議)409万石 36900
4.羽柴秀長(参議)317万石 42300
天下をほぼ手中に。後継者の織田政信が元服。
これを機に、北条家を短期間で根絶する作戦を発動。
相模にて織田25000と北条28000にて激突。
北条家へ上野・武蔵・甲斐から同時侵攻、
敵の総戦力を完全制圧し篭城戦へと突入。
北条氏直が戦死⇒下吉忠
北条氏直が戦死⇒下吉忠
【1597春】織田信孝家
1.織田政信(参議)833万石 90400
2.下吉忠(大納言)550万石 100
3.島津義弘(中納言)428万石 8000
4.羽柴秀長(参議)280万石 37500
対抗勢力もなくなり、あと2年程度で全国制覇か。
島津家討伐のため、羽柴領の播磨を侵攻通過。
水軍に勝る島津家をあえて四国に侵攻させ全軍対決。
讃岐にて織田46000、島津26000で激突。
この年の冬に当主 織田信孝が病死(39)⇒織田政信。
あの世で父 信長に会っても胸をはれる人生になったと思う。
あの世で父 信長に会っても胸をはれる人生になったと思う。
【1598春】織田信孝家
1.織田政信(右大臣)1386万石 140600
2.島津義弘(中納言)422万石 8000
3.羽柴秀長(参議)257万石 42800
美作にて羽柴家と全軍決戦。織田59000、羽柴43000。
1年に及ぶ篭城戦の末、小田原城にて下家が滅亡。
織田家政信、亡き祖父 信長公に並ぶ右府を任官。
【1599春】織田信孝家
1.織田政信(関白)1476万石 121400
2.黒田官兵衛(大納言)576万石 14800
美作にて羽柴家と全軍激突。織田75000、羽柴30000
伊予にて島津家を殲滅。島津家が滅亡。
羽柴秀長が病死(享年59)⇒加藤清正
加藤清正が戦死(37)⇒黒田如水
織田家政信が関白を任官。
1599夏、出雲の米子城にて羽柴家を滅ぼし
織田家政信が全国統一。織田信長が本能寺で討たれてのち17年後のこと。